わかめごさいのゴミ箱

死して尚インターネットに居座り続ける男

切り裂けど終わらない、悪夢の路にて

つんざくような悲鳴によって、人間に似た何かの私は今日も意識を叩き起こされる。県営団地の傍らにある憩いの場公園は、私にとってはこれっぽっちの価値も無いのだがどうやらそれは共通認識ではないようだ。学校帰りにその公園で遊ぶ子供たちは私の毎日の目覚まし時計と化していた。かけた覚えもないその目覚まし時計に舌打ちをしたところで、目を開ける。カーテンから漏れ出す西日は私を拒絶しているし、数字の4を指す時計の短針は私をこの世のものではないようなおぞましい目付きでこちらに目を配っている。もうこんな時間に起きる自分にもとっくに驚かなくなっていた。

 

私にとって"目覚まし"達程鬱陶しく忌々しい存在はいない。彼らには未来がある。彼らには友人がいる。彼らには夢がある。彼らには無垢がある。どれも私が持っていないものだ。もっと言えば、私が捨ててきたものだった。いつか"目覚まし"達に復習せねばならぬと燃え上がる私の感情たちは、その意思に反して臆病者だ。行動に移せるはずもなくただぼんやりと浮かび上がり、彼らをカーテンの隙間から見つめることしかできない。

公園の向こうの通りで、黒い服を着た私とさほど背丈の変わらない人たちがこちらに向かって歩いてくる。中学生だ。つい一昨年まで私もその括りだったのだが、今やその肩書きは失い部屋の隅でうずくまるゴミの掃き溜めと似たような存在になってしまった。よく見ると彼らのうちの1人は私の弟、翔だった。成績優秀で誰にでも分け隔てなく優しく、好青年な弟。去年の夏に高校を中退してから、私は翔が眩しくて顔を見れていない。

程なくしてチャイムが鳴る。父親が出たのだろう。声が聞こえてくる。

「ただいま」

「ああ、おかえり」

何度使い回されたかわからない挨拶のあと、私の部屋に向かって足音が近づく。数秒後、襖が開いた。

「ただいま、姉さん」

「…うん」

窓の方を見つめたままの素っ気ない返答を聞いて翔はそのまま襖を閉じ、自身の部屋へと戻る。私が引きこもってからというもの、翔はなにかにつけ私を気にかけているようだった。私はそれに姉弟愛とはまた違う、下卑た何かを感じ取っていた。或いは私の中のどす黒いもやから生じた、甚だしい思い違いなのかもしれない。とにかくその同情にも嫌悪にも心配にも見える弟の行動が私は気に入らなかった。

 

ふと尿意を感じ、恐る恐る部屋を出る。父親と会話はしたくないから、そうせざるを得ないのだった。

「おい盗っ人、まだ生きてやがんのか。」

息を殺して身を潜めて歩くその姿はまさしく盗っ人だった。見つかってしまった。また父親からの罵倒が始まる。

「俺から由紀を奪って、将来の安定を奪って、次は何を奪うつもりだ?穀潰しが。」

由紀は、私のママだ。私が███をやめた時、父親とママは喧嘩の末ママが出て行く形で離婚した。私に当たりの強い父親から引き剥がそうとしたが、それは出来なかった。だが、ママが私のことを捨てたとは思わない。出ていった日に本当に辛くなった時電話をかけてね、と言い渡された付箋は、080から始まるママの携帯番号が書いてあった。肉親から罵詈雑言を浴びせられたが、最悪の場合私には縋るものがある。そう考えるだけで幾らか気持ちが落ち着いた。父親を無視して事を済ませ、部屋に戻ろうとしたところで事は起きた。

突然白くなる視界。倒れる感覚。どうやら父親に後ろから殴られたようだった。私のどの行動が逆鱗に触れたかわからないが、父親にとっては堪忍袋の緒が引き千切れる程のことだったようだ。間もなくして後頭部に痛みと、父親の荒らげる声が聞こえてきた。

「今すぐこの家から出ていけ。もうお前に用は無い。どこへでもいってくたばれ。」

私はその言葉に安心した。この地獄のような日々から合法的に抜け出せるのなら、それで構わない。

「わかりました、お世話になりました」

倒れ込んでいた私は起き上がり、頭を下げる。荷物をまとめる準備をするため、父親の横をすり抜け自室へと戻る。父親は息を荒らげて立ち尽くしたあと、玄関からどこかへと立った。

 

 

自室で荷造りをしていると、翔がやってきた。私は荷造りに集中することにした。

「姉さん、大丈夫!?」

表情こそ見てないが、心からの心配にも聞こえる声色だった。

「大丈夫。今日までありがとう、お疲れ様」

きっとざまあみろと思っているに違いない。私は怒りで声が震えるのを我慢してそう発した。

「やだよ姉さん、俺も一緒に行くよ」

まるで私にまで優しさを振りまいているかのようなお世辞。上手くなったものだ。

「来ないで。あんたにはあんたの夢があるでしょ」

「違うよ姉さん、俺は…」

そういうと黙りこくってしまった。夢を諦めて捨てた人間が大層なことを言うもんだ。押し黙る翔をよそに私は荷造りを進める。

 

 

私はあまりのことに、一瞬何が起きたか理解が出来なかった。翔は私を押し倒しネクタイを緩めていた。2歳下の翔は私では到底太刀打ちできない程の力でねじ伏せる。私は突如理解した。翔は…弟は、決して私を侮蔑などしていなかった、味方だったのだ。膨れ上がった感情は爆発し、私の中で…あの父親と同じ悪と化してしまった。私は全てを諦めるしかなかった。怒りや憎しみは不思議と湧かず、ただ後悔だけが残った。真っ直ぐで出来のいい弟は、私のせいで犯罪者になってしまったのだ。

 

 

事が済んだあと、弟はひたすら私に謝っていた。私は弟と話すことはもう何も無かったから、それに目を配るでもなく立ち去った。もう戻ってこないことを悟ったのか、彼は私のものだったベッドの上で横たわり泣いていたようだった。

私を閉じ込めていた空間のドアを開けると、既に日は沈んでいた。街路樹や街灯は私を睨んでいるが、今から救済される私には関係の無いことだ。私はスマートフォンで付箋に書かれた番号を打ち込む。0、8、0………

 

 

 

おかけになった電話は現在使われておりません。

 

 

………ああ、そうか………

 

 

黒にも白にも見える景色の中、おぞましい量の雨水が私を責め立てる。最後に縋るべき藁は朽ち果ててしまった。ママ…母親はもう私にはいないも同然だ。弟も父親も、全て私の中で死んだ。

絶望と同時に私は全てを理解した。この恨みが今は私の支えであり、全ての原動力であると。何もかも失った私が未だに死ねない理由を。この世に、"目覚まし"達に、家族に、███に、復讐を果たさねばならぬと。